征文作者 梁茉奈(横滨山手中华学校第65届毕业生)
照片的年代(具体时间)·拍摄地点 1970年·横滨山手中华学校
照片上的人物以及与作者的关系 曾祖母
照片上的故事
中 文
这张照片是我的曾祖母何肖姻1970年(昭和45年)受横滨山手中华学校的邀请参加运动会时拍摄的。
那时正值中日邦交正常化之前,令我惊诧的是后边的宣传板上画有毛泽东主席的画像,和现在的中华学校的气氛完全不一样。
曾祖母小时候从广东来到日本,随着时间的推移日语水平渐渐提高,常常帮助不懂日文的父母照顾家里开的药店的生意。还经常为因不懂日文而困惑的邻居们做翻译,我的曾祖母就是这样一位喜欢帮助别人的女性。由于曾祖母乐于助人的品格决定了她以后积极参与横滨华侨妇女会、横滨山手中华学校管理委员会工作。她还特别关注有关孩子成长环境的改善问题,精力旺盛地投入其中令我们家族的人都惊叹不已。她从早忙到晚常常把我奶奶一个人留在家里,童年的奶奶与其它小孩子比起来留下的记忆更多的是寂寞吧。
学校事件发生后,中华街、中华学校乃至华侨界都处在一种不安的气氛中。这时的曾祖母与一些前辈一起挺身而出站在时代的前沿一方面保卫大陆华侨利益一方面发起建设新校舍的号召,为横滨山手中华学校的发展起到了重要的作用。作为曾孙女的我为有这样的曾祖母感到骄傲和自豪。
今年,曾祖母去世38年后的春天,我作为65届毕业生从横滨山手中华学校毕业了。在校时很多前辈、很多老师都跟我讲过曾祖母为学校所做的贡献,我感到特别幸福。我也希望自己能把中华街、中华学校的事当做我人生中重要部分好好爱护,成为像曾祖母那样无论什么事都竭尽全力去做的人。
(中文翻译:郑红)
日 文
写真は、曾祖母の何肖姻が1970年(昭和45年)に横浜山手中華学校の運動大会に招いていただいた際に撮られたものです。
この頃は日中国交正常化前で、後ろの縦看板に毛沢東主席の絵が描かれている様子は今の中華学校の雰囲気とはまったく違っていることに驚きます。
曾祖母は幼少のころ、広東省から来日しました。
成長して日本語が解かるようになると、言葉がわからない自分の両親を助けるために家業の薬屋を手伝う生活を送っていました。
また、言葉がわからなくて困っている隣近所の方々のために通訳のようなことをして、いろいろとお世話をさせていただくことが好きな女性だったようです。
そんな曾祖母が、華僑婦女会や横浜山手中華学校管理委員会のお仕事をお手伝いさせていただくようになっていったことは自然な流れだったのかもしれません。
特にこどもたちの環境改善に関する事柄ついては、家族もびっくりするくらい精力的に活動していたと聞きました。
朝から晩まで動き続けた曾祖母に、家に残された幼いころの私の祖母はずいぶん寂しい想いもさせられたようですが・・・。
学校事件によって一時は中華街全体に不穏な空気が立ち込めていた時代に新校舎設立の目標を掲げ、その活動に携われた多くの先輩方と一緒に活動していた曾祖母を、曾孫の私はとても誇らしく、嬉しく感じています。
曾祖母亡き後38年を経て、私はこの春横浜山手中華学校65届生として母校を巣立ちました。
在学中より諸先輩方、老師們より曾祖母の活動についていろいろとお話を伺うことが出来たのは、とても幸せなことだったと思います。
これからも中華街や中華学校を大切に想い続け、曾祖母のように何事にも一生懸命な人になりたいです。
このたび、曾祖母を紹介させていただく機会を与えてくださった鄭紅老師に心から感謝申し上げます。
- 新漫评:为什么我的作业得了“C2022-03-17
- 日本强震列车脱轨、核电站响火灾2022-03-17
- 法国取消大部分防疫限制措施展开2022-03-15
- 东西问丨朱诚如:“康乾盛世”时2022-03-15
- 东西问丨卢载宪:韩中建交步入“2022-03-15